引き寄せの法則で心を穏やかに。

不安障害な私が 引き寄せの法則や潜在意識を使って改善を試みたり考えたりするブログです。

不安に「なってしまう」とは

物事を良し悪しや善悪を付けずニュートラルに捉えることが大切だと言いますよね。

「不安になってしまう」「不安になってしまった」と表現する時点で不安=悪い事・悪い物と捉えているという事になります。

「すぐ不安になってしまう(嫌だなあ、不安になりたくないなあ←現状の否定)」

「また不安になってしまった(何で自分はこうなんだろう、こんな自分は駄目だ←自己嫌悪・自己否定)」

と、不安にネガティブを上塗りして「不安は嫌だ」「不安は悪い事だ」と言う意識を強めてまた不安を否定してしまいます。

物事を良し悪し関係なく「そのまま」捉える。良し悪しをジャッジしないと言うのは、よく言われる「ありのまま」と言う事ですよね。

「すぐ不安になってしまう→すぐ不安になる。以上マル。

「また不安になってしまった→また不安になった。それだけ。以上マル。

そんな風に考えられたらいいですよね。そうは言ってもやっぱり不安は嫌なものなのでなかなかそうは思えませんが・・。ただ「あ、また自分不安に《なってしまった》と思ってるな!ネガティブに捉えているな!」気づけたら良いなと思います。

 

物事は自分で意味付けするから良いとか悪いとかあるんですよね。

自分に問いたい言葉と言い聞かせたい言葉 - 引き寄せの法則で心を穏やかに。

で書いたように《問題》は《問題だ》と思うから《問題》なんですもんね。

自分が《問題》だと意味付けて《問題》を作り出している。

これらも「世界は自分で作る」と言える事柄なんじゃないかなと思います。

 

 

 

数十年に一度の大型台風・大雨。

数十年に一度と言われた台風19号が過ぎて4日が経ちました。私の所は特に被害はなかったものの川の増水が少し気になるのでまだ完全に安心とは言い切れない状況ですが。

 

台風が来る事も2日前の10日まで知らず、家族と電話している時に「ヤバイ台風が来てるよ」と言われて知ったのですがあまり気にしていませんでした。

「先月のも今年最大級とか言ってなかったっけ?」とは思いましたが。ただ翌日台風と関係の無い用事でホームセンターに言った所入り口に「土嚢・養生テープ・ブルーシート・カセットコンロ・ボンベ・電池売り切れ」と張り紙がしてあって「えっ本当にそんなにヤバイの?そんな皆備えてるの?」と少し不安になりました。

「皆(他人)は備えているけど自分は備えていない」と言う事に取り残されているような不安を覚えました。オイルショックってこんな感じだったのかな、とか。(別に世代ではないのですが・・)

 

そして次の日、私の地域では夕方以降台風が激しくなる予報でしたが昼前から鳴り響く緊急速報メール、お昼頃には避難勧告が出ていましたが外の様子は激しい雨もなく風もなく「普通の雨の日」と言った印象。ただTVでは激しい雨風の様子、増水する川、倒壊する建物・・。『今』の自分の状況は違うのに、まるで「自分の所もこうなってしまうんじゃないか」と言う恐怖・焦り。

結局昼間は家にある物で避難用の道具を集め、ソワソワしたまま過ごしました。ただ一応「万が一家を出る時の為の用具」を揃えただけで家を出る気はほとんどなかったのですが。

私は家から離れた場所に「歩いて」行くのが怖いため、本当に家に居られなくなったら出る、と言うつもりでした。雨風も強くないしまだ大丈夫なのでは?と言う気持ちもありましたし。実際は雨風強くなったら逆に外出られないんですけどね。カッパも用意してなかったので・・。

 

結局、雨風が激しかったのは夜の1時間位でその後は静かになり前回の台風の方が怖かったなあと言う印象。

特に被害もなく「過剰に怖がりすぎてしまったな」と思いました。勿論結果論であり、大丈夫であったからこそそう言えるのですが

その恐怖は「こんなスゴイ台風が来るぞ!」と言う前情報とTVやネットの「やばいぞ!」「前はこんなだった!」「うちはこんな目にあった!」「大変な事になる」「各地では増水・氾濫・倒壊しています!」等の『今の自分には起こっていない』 凄惨な状況・情報から。

それらの情報は実際に起こった事であり、それから参考にしたり得る物もあると思います。何の情報もなく災害が来れば備える事も心構えも状況に応じた行動も出来ません。

ただそれらの情報は【ネガティブな話題】ばかりで、そればかり見る事で「自分もこうなってしまうんじゃないか」と過剰に不安・恐怖を煽られるのも事実だと思います。

そうなってしまう可能性があるのは事実ですがまるで「そうなる可能性が極めて高い」かのように錯覚してしまいます。

予報により危険度の高い地域の予想もあらかたつくとは思いますが、「起こるかもしれないけど、起こらないかもしれない」と言うある程度の心の余裕は持って居たいものです。どうなるかは分からないけれど、『自分の心の平穏』の為に。

 

ただ当日は緊張していたのかトイレの回数がスゴかったです。避難用具を集めている際も「アレは要るかコレは要るか」と考えていたら微熱(知恵熱?)が出ました(^^;

でも薬は飲まずに済みました。怖すぎたらガンガン薬飲んででも乗り切ろうと思ってたのですが・・。少しは自分の心のコントロールが出来るようになったのかな?と思います。

 

とは言えまだ安心しきれない状況。適度に情報を集め、けれど過度に不安は煽られないように調節していきたいと思います。

 

 

『自由に過ごす』とは

好きな時間に起きて眠たくなったら眠る、そんな生活がしたいなあ
(でも規則正しく寝起きしないと体内時計が狂って自律神経が乱れるよ、日中の陽を浴びないとセロトニンが出ないしメラトニンも出なくて夜眠れないよ、夜眠らないと美容にも悪いよ)

好きな時間に好きな物を食べれたらいいなあ
(でも毎食決まった時間に食べないとリズムが崩れるよ、バランス良く食べないと体に悪いよ、間食は良くないよ)

寝る前だけどお腹が空いたな
(今食べたら太るよ、消化に悪いよ、寝酒は睡眠の質を落とすよ)

()内は思考の声です。食べ物や生活リズムに限った事ではないですが、普段から良い・悪い別にしてただ単純に「こうしたいな、こうだったらいいな」と言う気持ちを
「そんなの駄目だよ、常識的に言ったらこうだよ」と正論でねじ伏せてきます。
それは正しい事を言ってるのかもしれないけど、窮屈で、《常識》と言う枠の中に押し込めようとしてくる。『自分の気持ち』を殺して。

HAPPYさん(現さちまるさん)が以前「週3で焼肉屋に行く」「週3でラーメン中本に行く」「夜中にアイス2個食べる」「牛丼や丸亀のうどんが好き」等と言っていました。
HAPPYさんのお友達も「10年以上我慢してたコーラをガブガブ飲むようになったら肌がキレイになった」と言っていました。

それはこれらの食品が『体にいい』と言う訳ではないけれど、「自分のしたいように、好きなようにやる」と言う事が、結果として良い方向になっているのだと思います。
だからと言って「じゃあ好きな物好きに食べてもいいんだ!」とバクバク食べたり、不規則な生活をしても《必ず良い結果になる》という事ではなく
好きな事をしよう、としても心の奥底で(本当に大丈夫かな?)(こうすれば上手くいくんだよね??)と疑心暗鬼だったらきっと上手くいかないし、仮に心の底から信じてたとしても良くない結果になる事もあると思います。
そこで「上手くいかないじゃないかウソツキ!」や「こんな結果になるなんて、やらなければ良かった、最悪だ」と思うのならやはり心の土台が出来てなかったんだと思います。

HAPPYさん達は、宇宙を信頼し「自分の好きなようにやる」と決め、それでいて不利益が起こっても「それすらも受け止める」と言う覚悟をしているから物事が良い方向に行くのだと思います。
結局「腹立つ事も嫌な事も全くなく、良い事・楽しい事だけが起こる人生」と言うのは無くて
嫌な事もあるし上手くいかない事もあるけど、それらも受け入れて自分で受け止め方を転換して嫌な事も「ただの嫌な出来事」ではなく「意義の在る事」に変えていく。そう言った意味で『世界は自分で作る』なのかなと思います。

好きな事をやる、自由に過ごす。それは「それで良い事が起こっても悪い事が起こっても受け入れる、責任を取る覚悟」なんだなと思います。

その『覚悟』がまだ決まらない私ですが。「思考の声」「常識」に囚われるのをやめて『自分の心の声』を大切に生きていけるようにしたいですね。

じゃあどうすればいいのか

 いっそ「諦めてしまう」と言う手。

そうは思っても、「じゃあ諦めるってどうやったらいいの?」

「許容するってどうしたらいいの?」

「手放すって、どう手放したらいいの?」

って感じですよね。

分かった諦めるよ!許容するよ!手放すよ!で出来たら誰も苦労しませんし。

それに「本当にそれでいいのだろうか」「もっとこうした方がいいんじゃないか」「駄目だったらどうしよう」「やはり努力して行動するべきなんじゃないか」と、【今まで信じてきた常識・定説】が頭をチラついて結局踏み切れない。

頭ではこうしたらいいんじゃないか、きっとこうしたら良くなると思うものの「もし駄目だったら」と思うと怖い。

 現実と引き寄せの法則、相反する2つの間でどっちつかずにうろうろしている私です。

 「覚悟を決める」それが必要なんでしょうね。

 

いっそ「諦めてしまう」と言う手。

諦めてしまう

許容してしまう

許してしまう

「それでもいいよ」って。

 

頑張らなきゃって

良くならなきゃって

「今の状態では駄目だ」と肯定しているようなもの。

 

「今」を否定しておいて、こうじゃないああじゃない、もっとああしなきゃ、こうしなきゃって焦りで行動して上手く行く事なんかあるだろうか?

 

いっそ「もういいや、頑張らなくていいや」って諦め、許容、手放したら、ホッと肩の力が抜けて、考え方は後ろ向きでもエネルギーは前向きになるんじゃないか?

 

自分をずっと許していないから、ずっとこの状態なのではないだろうか。

腰を痛めています。


腰を痛めて約1週間、ほぼ寝て過ごしていました。
座っていると痛い、前かがみになると痛い、ずっと立っていても痛いのでこの1週間は家事もほぼ出来ず、この季節にお風呂にも4日入らず(お風呂場で動けなくなっても嫌だったので)食事とトイレ以外は横になっていました。
食事をしててもずっと痛いのが気になるしトイレの後手を洗うだけでも一苦労。立ち上がるにも床や壁に手をついて立ち、寝返りや体勢変えるのも痛いのでゆっくり気をつけながら動いて・・。

今日やっと、何とか座って居られるようになったのでこれを書いています。今もまだ痛みはあるのですが昨日までよりはマシなので。
以前も同じような感じで腰を痛めた事はあるのですがその時は2~3日寝ていればその後は起き上がれる程度に治っていたので、今回の様に6日間ほぼ同じ痛みが続くのは初めてで「これ治るのかな?」と心配になりました。実際まだ治ってはいないのですが。

ただここで思うのが「当たり前の様に立ったり、座ったり、作業をしたり出来る事」の有り難みです。

普段、自分は「他の人が当たり前にやっている事(普通に外を歩いたり、普通に電車に乗ったり、普通に外食したり、普通に美容院に行ったり)」が出来なくて、「何で他の人が『当たり前』に出来る事が自分には出来ないんだろう」と思っていますが、
自分にも「当たり前に出来る」事がある事。

自分に『ある』ものを見ず、自分に『ない』ものばかり見ては不満がっている事。

「失って初めて気づく」なんて言いますが、今、失っている最中だから「いつも当たり前に出来ている事」の有り難みに気付くんですよね。『当たり前』が『当たり前』じゃなくなった時、それは『当たり前』ではなかった事に気付く。

けれど、腰が完全に治ったらまたこの『当たり前』は『当たり前』になってしまうのでしょう。
外に普通に出れていた頃、外に出れる事は『当たり前』でした。そうやって人は『今、あるもの』の大切さに気付かないんだろうなと思います。「『今』に満足する」なんて、引き寄せの法則でも言いますが。他の方のブログで読んだ『足るを知る』もこういう事なんじゃないかなと思います。

この記事を残しておく事で、また『当たり前』になり、自分に『ある』ものを見ず 自分に『ない』ものばかり見てしまうようになったら、この事を少しでも思い出せる、留意出来るようにしたいなと思います。

自分に問いたい言葉と言い聞かせたい言葉

自分に問いたい言葉

「それって『本当』に必要?」

言い聞かせたい言葉

『「出来ない事」が問題なのではなく、出来ない事を「問題だ」と「思う事」が「問題」だ。』