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今、嫌な事が起きてるんですよね
大きな問題のような
別に大きくない問題のような
けどどうしたらいいのか分からなくて、考えをまとめようと書き出してみても全然まとまらなくて堂々巡りの考えしか浮かばなくて余計苦しいだけ
現実を変えようとするのではなく、内面を整えることが大切
そう、頭では分かっていても本当にそうなのかなって思ってしまって
どうしても現実的にアプローチしたくなって
どうしても「変えたい!変えたい!」って思ってしまう
後で考えたら、大した事ではないのかもしれないけど
渦中に居る時は目の前の現実に飲まれてしまって駄目ですね。
一っ飛び。
先日書いた第3の選択肢の記事、約1年半前に書いた「一気に飛ぶ事」を『許可』する に通じていると思います。
私は電車に乗れるようにと、その道筋・段階をノートに書いていました。最寄駅から1駅づつ
・○○駅(1駅目)に、多少不安でも薬を飲めば行ける。
・○○駅に、薬を飲めば不安が少なく行ける。
・○○駅に、薬を飲めば不安がほとんどなく行ける。
・○○駅に、薬を飲まなくても何とか行ける。
・○○駅で、周辺を散策できる。
等と細かく、また次の駅も
・△△駅(2駅目)に、多少不安でも薬を飲めば行ける。
・△△駅に、薬を飲めば不安が少なく行ける。
・△△駅に、薬を飲めば不安がほとんどなく行ける。
・△△駅に、薬を飲まなくても何とか行ける・・・
と、こんな感じで5駅先まで書いて、書くことも疲れるし、「この段階を踏まなきゃ良くなれないんだ・・」と逆に途方に暮れていました。(なので途中で書くのをやめたんですが)
正に「1から5に行く為には間に2・3・4があって、それを経由しないと5には辿り着けない」と思っていたんですね。
それが先日の14駅先まで行けたことで「2・3・4を経由しなくたって5に行っていい(行くことができる)んだ」と言うのを身をもって体験出来ました。
第3の選択肢で書いた3駅の壁も、以前は3駅目の扉が閉まるとウッとなっていましたが最近はほとんど気にならず、6駅、7駅位なら比較的不安なく行ける(まあ大丈夫だろうと思える)ようになって来ました。丸4年、ほとんどが3駅間しか移動出来なかったものがこの2・3ヵ月でその倍以上になったのは私にとって大きな変化です。
もっともっと色々な事を許可・許容出来るように、これからもゆるく頑張りたいと思います(^‐^)
第3の選択肢
不安障害が再燃して丸4年、頓服以外の薬を飲まずにやって来ました。
スピリチュアルの教え(内面を整える、自分を大切にする)から、「(常用の)薬を飲まなくても自分で治せるのでは?」と思ったからです。
しかしその間、ずーっと「でもやっぱり薬を飲んだ方が早く治るのでは?」と言う思いはありました。実際、以前は薬を飲んでほぼほぼ普通の生活が出来るまで回復したからです。
「薬を飲まずに考え方を変えて治せるか試してみよう」
「いやいや、やっぱり薬を飲んだ方が早いんじゃないか」
「いや、でも薬なしでも治せるかも知れないし」
「いやでも、やっぱり薬を飲んだ方が・・」
の繰り返し。
調子の良い時は「よし、この調子で薬なしでやっていこう!」と思い、調子の悪い時は「やっぱりスピリチュアルとか言ってないで薬飲んだ方が・・」と思い、そんな葛藤を続けながら結局は病院に通わないまま4年を過ごしてきました。
そして昨年末、そんな葛藤に疲れてしまったんです。
いつまでも、薬を飲む!にも振り切れず、かと言って薬を飲まずに治してやる!と言う信念も貫けない。
HAPPYさんのように自分でどうなるのか実験してみたい気持ちもあったけれど、それを貫くよりも私は早く治りたかった。
迷う気持ちはあったけれど、もう大人しく薬を飲もうと。
そうすれば、少なくとも「薬を飲むか飲まないか」「病院に行くか行かないか」と言う悩みはなくなる。
年末、私は以前と違う病院に行ってみました。予約を取らなくても良い病院だったので直接行ってみたのですが、さすがに年末は混んでいたようで年内はもういっぱいだから年明けに来てくれと。私は、年明けすぐは混んでいそうだから1月中旬~下旬辺りに行けばいいかなと思っていました。
どうせまた毎日薬を飲むようになるのだしと、今まで極力飲まないようにしていた頓服も少しの不安でも飲むことにしました。不安になった時「頓服飲もうかな?いや、まだ大丈夫かな?」と考えることも面倒くさくなったからです。
そうして1月には病院に行こうと思った私は、年始に電車に乗りました。
いつもは行けて3駅位、その先は急にハードルが上がり、最大7駅先まで行けたことがありましたが、4年間ほぼ電車に乗ると言ったらその3駅間でした。
その日も軽く、無理しない範囲で行こうと思っていました。頓服も飲み、その日は6駅先まで行けました。6駅先へ電車が着いた時、「降りずにこのままもう一駅だけ行ってみよう」と思いました。(以前行った7駅目は乗り換えた1駅先だったので)
そうして電車が動き出し、窓から4年以上ぶりに見る景色を見て「もっとこうやって色々な景色を見たいなあ」と思いました。
着いた7駅先で改札を出ず折り返したのですが、ふと「以前よく行っていた14駅先の場所に行ってみたい」と思ったのです。
4年間で行けたのは最大7駅先まで、それもたまたま数回程度、家から離れていくのが怖い、すぐに帰れない先で不安になったら。
それでもその時は何故か「もし不安になってもいいから向かってみたい」と思ったんです。
そうして戻った6駅目で乗り換え、その駅へ続く電車に乗りました。乗り換えて1駅目、この4年間で一番遠くまで来れた駅です。その駅を通り過ぎ、4年ぶりにその先へ出ました。
不安になってもいいとは言ったものの不安になりたい訳ではないので、途中で怖くなったらいつでも引き返すつもりでした。あくまで「向かってみる・チャレンジしてみる」と言うことだったので。
そうしていつでも降りれるように駅に着くたび自分の様子を観察して、まだ降りなくて大丈夫、まだ降りなくて大丈夫・・を繰り返し、目的の駅へ着きました。
行けるなんて思っていなくて、怖ければ降りてすぐ反対の電車に乗ることも考えてましたが、そこまでではなかったのでとりあえず改札まで。改札を出れるか?も考えましたが何とか出れそう。怖ければまたすぐ入ろう。そう思って改札を出て、まだ何とか大丈夫。ほんの少し歩こう。怖かったらすぐ戻ろう。それを繰り返し、結局その駅近辺を1時間ほど散策しました。
後半さすがに疲れて来て、体が疲れると不安になりやすくなるのでそうなる前に戻り、結局大事に至ることなく無事帰って来る事が出来ました。
そうして、私の中に
1.薬を極力飲まずに考え方を変えることで不安障害を改善する
2.薬をちゃんと飲んで不安障害を改善する
の2択から
3.頓服を利用しながら行動し、不安障害を改善する
と言う3つ目の選択肢が生まれました。
そんなの当たり前のことなのですが、何故か「薬を極力飲まない」or「薬を毎日飲む」と言う両極端な発想しかなかったんですよね。それで、どちらにも振り切れず4年間悩んで来ました。
結局、「頓服だけでも何とかなるのでは」と言う考えに至ったので病院には行かず、以前貰ったレキソタンを飲んでいます。
その後1月~3月の間もちょこちょこ電車に乗り、今まで行けなかった9駅先、10駅先にも行けているのでただのまぐれではないようです。頓服は基本飲むけれど、1度乗り換えアリの9駅先に行った時は終始飲まずに過ごせました。地下鉄にも4年以上ぶりに乗りました。
このままどんどん出来る事が増えればこのままでいいし、どうしても進めない壁にぶち当たる事があれば病院に行ってもいいと思ってます。
昨年『許す』をテーマに掲げていましたが、結局私は「薬を飲むこと・病院に行くこと」を許せていなかったんですよね。以前「薬は杖のようなもので支えてくれるもの」と書きましたが「上手く杖を使って歩けたらいいよね」と思いつつも「でも杖なしで歩けたらもっといいよね」と思っていたんだと思います。
それが昨年、もう悩むの疲れたから大人しく病院行こうと思った事で、頑なだったものが緩み、それがある種の『許す・許容』に繋がったんだと思います。
因みに今年のテーマとして掲げた
・いつもと違う選択をする
・罪悪感からの解放
・先入観、固定観念、思い込みからの解放
については、うち2つの
・いつもと違う選択をする(いつもならしない14駅先に向かってみる)と
・先入観、固定観念、思い込みからの解放(今まで3駅先に行くのがやっとなのにいきなり14駅も先なんて行けるはずがない)
を一先ずクリア出来たかなと思います。クリアと言っても1度出来たらokと言うものではないので引き続き意識していきたいと思います。
ただ、今年は年初めから私にとっては大きく事が動いたし、これからもさらに良くなっていくことを期待していますo(^‐^)o
私次第ですね。
『世界は自分で創る』
です(^^)y
2021年 今年のテーマ
今年のテーマ(していこうと思う事)は
・いつもと違う選択をする
・罪悪感からの解放
・先入観、固定観念、思い込みからの解放
です。
ちなみに昨年のテーマの『許す』については、正直あまり出来たとは言えません;
ただ今回の『罪悪感からの解放』と『許す』は通ずるものがあるので、併せてやっていきたいと思います。
感情の先取り
よく引き寄せの法則(宇宙の法則)で「感情の先取りをしましょう」と言いますよね。
幸せになりたいなら『今』幸せ(な気分)になる。
病を治したいなら、病が治って嬉しい!幸せ!な気分を『今』味わう。
そうは言うけど難しい。
「『今』幸せを味わえって言われても『今』幸せじゃないもん」
「『今』病が治った時の気分を味わえって言われても『今』治ってないもん、なってもない事は想像出来ないよ」
そう思いませんか?リアルに想像しろと言われても出来ない。
けど『良くなる』事は想像出来ないのに、『悪くなる』事は容易に想像出来ませんか?
外に行って、不安になって、息が出来なくなって、パニックになって、倒れて、周りに白い目で見られて、それがトラウマになって・・等、私はありありと想像出来てしまいます。そんな状況になった事は一度もないのに、その状況をリアルに想像して「その時の嫌な感情」を今、味わう事は出来てしまうんですよね。
と言う事は『今、なってもいない状況』の感情を先取りするのは可能だと言う事。
ネガティブな事ばかり想像出来てポジティブな事は想像出来ないと言うのは思考のクセ。そしてポジティブな想像をすると「いやそんな上手くいくかなあ?」「上手くいかなかったらどうするの?」と野次を飛ばしてくるのはエゴの声。
ネガティブな想像に慣れているだけで、ポジティブな想像に慣れていないだけ。
だんだんポジティブな想像にも慣れて、『ポジティブな感情の先取り』が上達したらいいですよね(*^^*)
スピリチュアルを否定する友人。
以前スピリチュアルカウンセラーの人に怒られて残念な事がありました。と言う記事を書いた頃、こういうことがあった~と友人(私の不安障害の事を知ってて、その人自身も精神安定剤を飲んでいる)に話した所
「スピリチュアルなんて何の意味も無い。そんなことしてないで病院で薬もらって社会復帰を目指せ」と言われました。
(スピリチュアルと言っても「不思議な力が何とかしてくれるんだよ~」みたいのじゃなくて・・と説明しましたが、聞く耳持たない感じだったのでそれ以上は言いませんでした)
先日ふと気になって「何でスピリチュアルに否定的なのか」と訊いてみた所「そういうのにハマりやすい、メンタルや頭の弱い人を狙った詐欺だから」と言われました。
最初はその断定的な物言いにちょっとイラッとしたものの、話をしている中で「墓参りも行かない(霊とかも信じないから)、そもそも神様なんかが万一居るなら殴ってやりたい位だ、この世の不平等に」と言うので、そこで私は「ああ、そもそも『神様』というものに対する認識・定義が自分と違うんだな」と思いました。
その人は複雑な家庭環境で育って、あまり「幸せそう」と言える様な人生を送って来てはいない人で、きっと彼女の中で『神様』と表現するものは、『皆を守り、平等や幸せを与えてくれるもの』なのでしょう。なのに、それが居るなら、もっと世界や人生は良くあるはずで、もっと救われるはずなのに、そうならないから「そんなものが居るはずがない」となったんだと思います。
私もたまに『神様』や『宇宙の力』と表現しますが、それらが実際に在るかどうかは分かりません。だって見えも聞こえもしないので。ただ『確実に在る』とも『確実に無い』とも証明出来ないけど、私的には「多分在るんだろうな~」とぼんやり思ってる感じです。そしてそれは『皆を守り、平等や幸せを与えてくれるもの』と言う定義でもありません。
『神様』『スピリチュアル』等と一口に言っても、それらが表現する、またそれらに抱く感覚、位置付け、定義等は全くの別物だったりする。
私の表現、また感覚は彼女には分からないし、仮にそれを共有しようとしたとしても、彼女には彼女なりの感覚、考え、定義があるのですり合わせられないし、すり合わせる必要もないのでしょう。
ハンバーグをおいしいと思う人と、ハンバーグをおいしくないと思う人が、『ハンバーグ』に対する認識・感覚を合わせる必要はないですもんね。