引き寄せの法則で心を穏やかに。

不安障害な私が 引き寄せの法則や潜在意識を使って改善を試みたり考えたりするブログです。

今年のテーマは『許す』事。

私は今年のテーマとして『許す』『許容する』を意識していきたいと思います。

 

その『許す』とは他人を許すと言ったものではなく

『受け入れる・認める・許容する』と言った『許す』です。

詳しくはまたぼちぼち書いていけたらと思います。

 

 

「とにかくやってみろ」と言われても

不安障害関連ではないのですが、あるスピリチュアルYouTuberさんが

「こうすると良いですよ、と言っても「でも不安なんです」と言ってくる人が居る。まずは実践してから言ってくれ」と言っていたのですが、それって不安な人の気持ちを汲んでないよなあと思いました。

自分が不安でぐじぐじ動けないタイプだからそう思うのでしょうが、それが出来たら苦労しないと言うかそう出来ないから悩んでいると言うか。

それで悩んで心を疲弊して相談に行くのにそう言われたら八方塞だと思うんです。

「まずはこのバンジージャンプを飛んでみて」と言われてポンと飛べないですよね。その勇気が無いから、その勇気を出す為の方法を知りたいのに「まずは飛ばなきゃ話にならない」と言われたらどうしようもないと思うんです。

けど「人を助けようとする事をやめる」と言う事 で書いたような「助けて欲しい」需要と「助けてあげる」供給の差異なのかなとも思います。

「助けて欲しい」人は10の助けを求めているけど、「助けてあげる」人の言う「助ける」は6しかないような。確かに「助けて欲しい」人の需要を際限なく供給してあげる義務はないのですが・・。

 「人を助けようとする事をやめる」と言う事 で「自分は他人に求めすぎていたんだな、何とかして貰えると思っていたんだな」と書きましたが、まだ不安や心の痛みがあり、助けて欲しい気持ちの抜けきらない私はこういう人達を「冷たい」と感じてしまうんですよね。勿論この人達が悪いとは思わないのですが・・。

私もそっち側に行ったらこの人達の気持ちが分かるのでしょうか。そして、分かった時には私も「つべこべ言わずに行動しろ」と言うスタンスになるのでしょうか。

 

それらも、分かったり考えが変わったりする事があればまた書いていきたいと思います。

 

 

 

 

私の『スピリチュアルを信じている』とは

私の言う「スピリチュアルを信じている」と言うのは

「スピリチュアルな力が何とかしてくれるんだ~☆」ではなく

「スピリチュアルな考え方を使って現実を良くして行こう」と言う事です。

『力』ではなく『考え方』を信じています。

そしてそれは『スピリチュアル』でなくても全然構わないんです。正直、哲学だろうと心理学だろうと物理学だろうと『自分らしく、より良く生きるための方法』って、結局みんな同じ事を言っているんだなと感じます。

途中は違う事を言っていたり時には真逆の事を言っていたりするけど、最終的な目的はみんな同じなんだと思います。

なのでその過程が「私は哲学からこう学んだ」でも「私は心理学でこう学んだ」でもどれでもいいと思います。最後に自分がHAPPYになれればそれでいいんです。

私はただ、その考えを理解するのにスピリチュアルの考え方がしっくり来たのでスピリチュアルを引き合いに出してるだけなんです。

 

最終的にポジティブシンキングと言うか物事の捉え方と言うか、

「コップに水が半分しかない」を

「コップに水が半分もある」

ナチュラルに捉えられるようになったら勝ち!なんじゃないかと思ってます。

スピリチュアルは洗脳される?

「スピリチュアルは変な洗脳をされる」みたく思う人も居るかと思います。

けれど、昔から良しとされる「勉強して、良い成績を取って、良い学校に入って、良い会社に入る事が素晴らしい人生」とか

「輪を乱さず、謙虚に、努力をして我慢をして、品行方正に生きる事が美徳」だとか

誰目線からの《良い事》なんでしょうか。

よく言われている事ではありますが《社会にとっての良い事》ですよね。その方が統率しやすいから。

皆が皆、個性を大事に好きなように生きられては扱いづらい。

「良い学校に行って良い会社に入る事」を大多数の人が目指してくれなければ社会は成り立たなくなってしまいます。

「輪を乱さず謙虚に、努力をして我慢をして、品行方正に生きる事が美徳」と思って貰わないと扱いづらくなってしまいます。

そうならない為に「こうやって生きる事が正しいよ」「ここから外れたらロクな人生にならないよ」と教える事は既に【洗脳】と言えるのではないでしょうか。

私も、それを疑わず「そういうものだ」と思って生きて来ました。でもそのようには生きて来れなくて、そんな自分を「駄目な奴だ」とずっと思ってきました。

けど『自分を大切にする』『自分を生きる』と言う新たな概念を提示してくれたのが引き寄せの法則(宇宙の法則)だったので、私はスピリチュアルを信じています。

アドラー心理学で良いと思う部分と同意出来ない部分

私は本を読むのが苦手なので《マンガで分かる》系のアドラー心理学しか読んだ事ないですが、その中で私が「良いな」と思える部分を紹介します。

 1.課題の分離 

《他人の課題》と《自分の課題》を分け、『他人の課題に踏み込まない』また『自分の課題に踏み込ませない』

他人の問題(課題)を解決してあげようとか、自分の問題を解決してもらおうとか、または他人にこう言われたからやるとか諦めるとか。他人と自分との境界線を曖昧にせず『他人はその人の人生を生きている』『自分は自分の人生を生きていく』と明確に分ける事が大切なんだと思います。

2.『ユー・メッセージ』ではなく『アイ・メッセージ』

主語を「あなたは~」ではなく「は~」にする。

「あなたって〇〇だよね」や「あなたのそれおかしくない?」等の言い方だと、相手は自分の事を上から決め付けられたようで反発したくなる。

「私はこうしてくれると嬉しいな」や「私はこう思うんだけどどうかな?」と『自分側の想い』を伝えると、相手は自分の事について言われていないので反発する事もなく「そっか、そう思うんだな」と理解してくれやすい(だからと言って自分の思うように動いてくれると言う訳ではない)

「あなたは~」にしてしまうとコントロールになっちゃいますもんね。

 

この2つは理解と同意が出来ます(アドラー心理学でなくともよく聞く話ではありますが・・)

 

次に同意出来ない部分について。

1.理性と感情、意識と無意識の区別など無い

2.トラウマなど無い

3.劣等感は良い事で劣等コンプレックスは良くない(攻撃・自慢・不幸アピールが良くないと言う部分は同意しますが)

4.人間の悩みは全て「対人関係」の悩みである

5.「他者信頼」「他者貢献」して自分に価値を見出す事で「自己受容」出来る

です。

まず1はシンプルに同意出来ないし2も乱暴で心に痛みを抱える人には厳しすぎる。3は世間で言う劣等感を劣等コンプレックスと言っていて、ここで言う「劣等感」は「悔しさをバネに」と言う反骨精神のようなものだけど皆が皆そう言う精神を持っているとは思えない(私にその精神がないからそう思うのかも知れませんが)4も確かに大半はそうだと思うけど「全て」ではないし、5の共同体感覚を持って他人に貢献してこそ自分の価値を感じられると言うのは、結局内側ではなく外側を見てる事に繋がる気がするので私は嫌だなあと感じます。

 

ただこれは批判目的ではなく「現時点で私が思っている事の記録」なので、今後「あの時はこう思ってたけど考え方が変わったよ!」とか「あの時はこういう意味だと思ってたけど誤解してたよ!」等《考え方や理解の移り変わり》が見て取れたら面白いなと思い書き残そうと思いました。私もマンガ本+α の知識と私の理解力でアドラー心理学の全てを正しく理解してるとは思わないので。

今後また考え方・理解が変わる事があればその都度書いていきたいなと思います。

『自分で考える』と言う事

以前メンタリストDaiGoさんの「週刊誌に嘘を書かれた」と言った内容の動画を見て、メディアは一部分を切り取ってそれを誇張し「こう思わせたい」と言う方向に誘導しているんだな、と解釈しました。

それはネットニュースなどの見出しによくある「〇〇発言で炎上!」や「〇〇の行動に「最低」「失望した」などの声」や「批判殺到」等の煽り文。

芸能ニュースにはそこまで興味ない方ですが、今まではこれらを見て「へーそんな事言ったんだ」「炎上してるんだー」程度には【そのような事実(出来事)があった】と認識していました。(100%信じてる訳ではないけどそれっぽい出来事はあったのだと)

ですが前記の動画を見て「本当にそのような事があったのだろうか?本当にそうを言ったのか?本当に批判「殺到」なのか?」と思うようになりました。

たまに気になった記事を開くと「何だ、言うほど大した事してないじゃん」と思う事もあれば、4・5行の記事で「〇〇の番組でこのような一幕があった。この行動に対し「最低」「失望した」などの声が多く上がっている」等の結局細かい事は書かれていない記事だったりがほとんどで

そうした時に「××と言う発言をしたのは確かかも知れない。が、その前後の言葉は?その場の状況や雰囲気は?」と考え、それを知らずに「××と言う発言」だけに焦点を当ててあーだこうだ言うのはおかしいのでは、と思うようになりました。

もし「〇〇の行動に「最低」「失望した」などの声」が本当にあったとしても、それが何割なのか分からないし、肯定的な意見もあるだろうにそれは紹介しないでさも「非難殺到!」みたいな印象にしようとしてくる。

 

それは「人を助けようとする事をやめる」と言う事 で書いたスピリチュアルYouTuberさんの「人を助けようとするのをやめます」発言だとしたら、話を聞けばちゃんと理由がある事が分かるけど、印象操作したいメディアの場合「〇〇が「人を助けるのをやめる」発言!他人なんか知らない、見捨てていくとの事」位の改変をしたりするんだなと思いました。それは内容を知った上で故意に変えているのか、タイトルだけ見て「こう言った!つまりこういう事に違いない!」と脳内補完しているのか分かりませんが、そう言う適当なものなんだなと。

それは内容をちゃんと知る / 書くのが面倒だからなのか、単にそう言った方が目を引くからか分かりませんが、大半は目を引くためなんだろうなと思います。真実がどうかよりも見て貰う事の方が大事。人は刺激が欲しいためかゴシップニュースやネガティブニュース(犯罪・事件・事故等)に興味を惹かれがちですもんね。

 

そんな訳で、メディアを元々そんなには信じてた訳じゃないけど改めて「ちょっと待てよ」と考える機会になって良かったなと思います。

この記事はメディア全般が悪い!とかの話ではなく「情報を鵜呑みにしないで自分で調べたり考えたりする事が大切」と言う事です。

ネガティブニュースに限らず「これが話題!」「絶賛!」「最高!」等も「本当かな?流行らせたいだけじゃないかな?」等考えてみるのが良いと思います。

疑心暗鬼になれと言う話ではなく「皆こうだと言ってる。でも本当にそうなのかな?自分はこれに対してどう思うのか?」と自分側に立ち返る事が自分を生きるためにも大切な事なんだと思います。

電車に乗って来ました&思った事

今日は1ヵ月半ぶりの電車に乗って来ました。天気もいいし気候もいい、『お出掛け』するには丁度いい日。3つ先の駅の駅ビルでちょっと見たいものがあって近々電車に乗ってみようかなとは思っていたのですが

家を出る前はいつも不安で、そこまで遠くない場所も『電車に乗る』と言う行為も家を出る前は行ける気がしません。外に出れば案外行けてしまう事もあるのですが、『電車に乗る』のは自転車で行ける距離とは違う不安感があります。

今日は、特に体調は悪くもないけど良くもなくて、けど何となく不安で電車に乗るのは厳しい気がしてどうしようかな~と思っているうちに15時を過ぎて余計乗るのが厳しくなって(人が多いのは怖いので通勤・通学客の増える夕方以降は避けたい)けど、今日はやめた!と言う踏ん切りもつかなくて「とりあえず駅方面だけでも行ってみるか・・」と外に出て、駅に行けたのでとりあえずトイレに入って(トイレに行きたい状態だと不安が増すのと、乗るのが無理なら駅員さんに事情を話して出ようと思って)その後とりあえずホームへ行って、とりあえず1駅先へ行って、2駅先、3駅先へ行きました。その間「とりあえず1駅目で降りて薬を飲もうかな」1駅目に着いて「まだ大丈夫だけど次で薬を飲もうかな」2駅目を過ぎて「次で目的の駅だから降りたら薬を飲もうかな」着いて「とりあえず改札を出てヤバそうになったら飲もう・・」と

「とりあえず~する」と「もっとヤバくなったら飲む」の先送り形式で結局薬を飲む事なく帰宅しました。楽だった訳ではないけど「ヤバイ!飲もう!」までは至らなかったので。

途中で「何だかんだイケる時はイケるものだな」と思ったり、以前心理カウンセリングで「不安なままでも行ける場所を増やす」(行動療法や暴露療法の話でなく、マインドフルネスの「今ここ」をやっているとそうなれる)と言われたのを思い出したりしました。

 

とは言え、1度大丈夫だったからと言って「今回大丈夫だったから次もイケるかも!」というポジティブな思考は出ず、「今回 は 大丈夫だったけど次は分からない、今後もその時々の様子を見て対処しなければ」と謎に自分を律してしまうのですが、これって

「そんな毎回上手く行くはずないだろう(だから調子に乗ってはいけない)」と『上手く行くかも知れない』と言う可能性を自分で抑えつけているんだなと思いました。

昔からポジティブに考えるのが苦手で、悪い方悪い方へ考えて来ました。それは自分を守るためで、もし駄目だった時 期待して高い地点から落ちるより、そもそも期待しない低い地点から落ちた方が落差が少なくてダメージが少ないだろうと思っていて。

いつも悪い方に考えておいて、けど大体思うほど悪い事にはならなくて「今回も大丈夫だった」と安心するけれど、たまに「いつも大丈夫だから今回も大丈夫だろう」なんて楽観的に考えようとすると「いつも駄目な方に考えてて悪くならないんだから、悪く考えないと逆に駄目な事になるのでは?」と言う思考が出てきて、そうなるのが怖くてネガティブに考える事がクセになってしまって。なのでまだそのクセが抜けず【ダメージを少なくするための思考(と思っているもの)】をしてしまうんですよね。

けどその『自分を守る方法』は間違っていたし、逆に自分を苦しめていたなと思います。

そう頭で理解しても頑固な思考グセはまだ『ポジティブに考える事』に抵抗しますが、徐々に許せるようになったいいなと思います。

ポジティブに考える事を許す と(物事が)ポジティブな方向になる事を許すは同意義になるんじゃないかなと思います。