コメント返しから「自分」を見る。
このブログに唯一コメントを下さるⅠさん。先日そのⅠさんへのコメント返し中、2度書き直しをしました。
1回目は自分もこんな事があったんですよ~と言う話とそれについての自分の考えを書いたら長くなってしまったため。「あれ、何か自分語りになってしまってるぞ」と気づいたので。
2回目は「こうするといいと思いますよ」と【自分の考え】をおススメしてしまったため。人の話を聞いて「こうじゃないかな」「こうしたらいいんじゃないかな」等「自分の意見(考え)」が浮かぶのは普通の事かとは思います。
けれどそれを相手に伝えるべきか?「私」は「こうしたらいいんじゃないか」と思うけれど、それは「相手にとって」本当に良い事なのか?
私は「相手にとって少しでも有益になれば」と思って意見しようとしたけれど、その実「教えてあげたい」と言うような驕りにも似た気持ちが潜んでいるのではないか?
そう思い、その部分を出来るだけ削りました(結局少し入っちゃいましたが;)
勿論、私が何を言おうとおススメしようと取り入れる取り入れないは相手の自由ですし、私も適当言ってる訳ではなく今まで見たり聞いたりした中で良いと思ったものをお話してはいますが、その話はブログですれば良い事。
私がお話するのは※個人の感想です の様に「個人の意見」であって、良かれと思ってお話してもそれについて不備があっても何の責任も取れません。
だからこそ《個人の方》宛てにアレコレ言うのは控えよう、気をつけよう。と言う自分への戒めの記事でした。
※個人の感想です
って言葉、胡散臭いですよね。どんな内容もこの言葉が付いてるだけで一気に胡散臭く感じます。
でもその胡散臭さを利用して、他人に言われた嫌な言葉や受け入れがたい内容等も ※個人の感想です で受け流せるのではと思っています(´-`)
例えば
「そんな事をして何になるの?」
「そんなのやめときなよ」
「もっとこうするべきだよ」
「〇〇をしないと治らないよ」
などの意見・・
そんな事をして何になるの? ※個人の感想です
そんなのやめときなよ ※個人の感想です
もっとこうするべきだよ ※個人の感想です
〇〇をしないと治らないよ ※個人の感想です
って付けたらみんな「なんだ個人の感想かあ(´-`)」ってどうでもいい気分になりませんか?
私も先日、体の歪みを取る事でパニック障害が治ると言う人が「薬や認知療法だけでは絶対に完治しません!!」と断言していて
一瞬ドキッとしましたが「※個人の感想です」を付け加えて「この人の中ではそうなんだな」で落ち着きました。
人に言われて何かをしたりやめたりしても、それで何かあっても誰も何も責任を取ってくれません。
その人の中ではそれが真実でも、それが『自分』にとっての真実とは限りません。
別に嘘を言ってるとは思いませんが、あくまで「個人の感想(意見)」である事を念頭に置いて、自分の考えや行動を決めていきたいと思います。
・・勿論この記事も ※個人の感想 です(*^-°)
不安がちょっと強まってます
先日、気づきを得た辺りからちょっと不安が強まってる気がしています。
気づきを得た事と関係があるのか、単に暑さのせいなのか分かりませんが・・。少し離れた場所(自転車で15~20分位)だけど、今まで薬なしでほぼほぼ問題なく行けてた所が何となく怖くて。どうしても行けない訳ではないけどあまり行きたくはない、何となく抵抗がある、、と言った感じです。
ただ今まで懸命に行っていた場所が、本当は怖かったのかな、ちょっと無理をしていたのかなと言う気持ちでいます。
不安障害を治すのが目的のブログなので行動範囲が狭まっては本末転倒なのですが、気づきと関係あるのか、暑さのせいなのか、単にバイオリズムなのか・・とりあえずあまり気にせず様子を見てみようと思います。
気づきを得ました。
先日の事ですが『気づき』と言うものを感覚的に体感したお話をします。
私が先日『気づいた』事、それは
・「こうであるべき」と言う思い込み
・物事を「上手くいかせたい」自分
・誰かや何かに「助けて貰いたい」自分
などです。
「こうであるべき」とは、自分以外の事やものも・・先日の残念な事がありました。と言うほぼ愚痴の記事ですが、これはいつもと違うカウンセリングを受けてみたら怒られてしまったんです。「何でも話して下さい」とHP等にあったので話したい事を話してたら怒られてしまって・・。
「何でも話してって書いてあったから話したのに、嘘だったの?!」と言う思いになり、悲しくて上記の記事を書きました。
しかし、気づきがあると「あぁ、私は《カウンセラーは悩んでる人の相手をするのだから優しく対応してくれる筈だ》と思い込んでいたんだな」と思いました。
そう期待していたし、思っていた事と違う事が起きたから悲しいんだなと。
もちろん怒られた事は嫌ですし、何で?と言う思いはあります。けど最大の悲しみは《自分自身の「こうであるべき」と思い込んでいた事から外れた事》 から起こっているのだと思います。
簡単に言ってしまえば《期待ハズレ》ですよね。《期待》するからそれがハズレた時にガッカリしたり怒ったりする。だから最初から期待しなければいい・・そんなの心理学でも当たり前に言われてる事ですが。
最初に上げた
・物事を上手くいかせたい自分
・誰かや何かに助けて貰いたい自分
もほとんど同じ事です。
「物事を上手くいかせたい」=「カウンセラーの人に有益な情報を貰って改善を図りたい」=期待
「誰かや何かに助けて貰いたい」=「誰かや何かが助けてくれるんじゃないか」=
期待
と言った感じで。
今までも、頭では「自分はこんな風に思っているんだな」とは分かっていたのですが
それが今回「自分はこんな風に思っているんだ、だから苦しいんだ!」と言うのが胸にストンと落ち「そうだったんだ~!」と実感として感じられたのです。
今まで解けなかった問題が急に理解出来る様になった感覚でした。
それから数日は不思議な感覚でした。
何もしてなくても胸の中からじわじわと湧き上がってくる楽しさ、嬉しさ、ワクワク感。
「こうであるべき」と思い込みの強い自分、物事が上手くいかないと嫌な自分、
誰かに助けて貰いたい自分、そんな残念な自分を実感したのに何故か嬉しい。
(これに関しては本当の自分が「分かってくれて嬉しい!」と喜んでたんじゃないかと思ってます)
何もしてなくても『幸せ~』と言った感覚が3日程続きました。
が、前途の通りその感覚は3日程でほぼ感じなくなってしまいました。
80%位開いていたフタが10~20%位まで閉じてしまった感じです。
けれどこんな感覚を味わったのは本当に初めての事でしたし素敵な体験でした。
これが宇宙的な力のものなのか単にメタ認知が出来たからなのか分かりませんが、この感覚を日常的に感じられる様になればきっと人生は楽しくなるし、不安障害も治っていくだろうと思いました。
今はほぼ感じず、考え方が戻ってしまった様な、解けていた問題がまた分からなくなった様なモヤモヤッとした感覚がありますが
1度は大きく開いたフタ、きっとまたパカッと開いてくれる時が来るでしょう。
その時を楽しみに待ってみたいと思います。
私がスピリチュアルを信じきれない理由
私がスピリチュアルを完全に信じきれない理由は
「何かあっても自己責任だから」 です。
もし「良い気分でさえ居れば全てがうまくいくんだ!」と思って、毎日毎日ゴロゴロ食っちゃ寝して「やりたくない事はやらなーい、良い気分でさえ居ればいいもーん」と自堕落な生活を送ったとして、状態が良くならない、または悪化したとしても誰も何も責任を取ってくれないからです。(自己責任なのはスピリチュアルに限った事ではないですが)
もしかしたら「本当に良い気分」であれば上記のような生活をしても物事が好転することもあるのかもしれませんが、私にはそこまで意識を持っていけないので・・。
引き寄せの法則は、良い気分で居る→いきなり物事が勝手に良くなる!ではなく、
良い気分で居る→インスピレーションや行動する意欲が自然と湧いてくる→前向きに行動出来る→素敵な結果が出る、と言った感じだと私は認識しています。
けれど「本当に『良い気分』だけでいいのかな?」と言う疑いはどうしてもあり、また、信じようにもネガティブな思考グセがあるせいでなかなか『良い気分』になる事自体が難しくもありました。(それはもう、いっそ私が嫌がっている「現実的な行動」をした方が楽なのでは?と思うほどに。)
また、もう1つの理由として「傾倒しすぎてスピリチュアルの沼にハマりたくない」と言うのがあります。
ここで言う「スピリチュアルの沼」とは私がスピリチュアルを信じたい理由② で書いたように「何かに縋る、祈る、アイテムを買う・・」と言った【別の何か、誰か】に心酔して自我を失う事を指しています。
もしそうなっては本末転倒です。そうならない為に気をつけてはいますが、あまりにスピリチュアルな話ばかり聞いているうちに知らず知らずそうなってしまったら・・と言う懸念があり、どっぷり浸かり過ぎないよう一線を引いてる部分はあります。
引き寄せの考え方は本当に素敵な事だと思っていますが、意味を取り違えたり、間違った方向に進まないように注意しなければと思います。
これらが私がスピリチュアルに心を渡しすぎない様にしている理由です。
信じたい、けど信じきれない部分もある、両方の側面を持っている事を書き記しておこうと思いました。
私がスピリチュアルを信じたい理由②
追記になりますが。
かと言って私は「スピリチュアル全体」に傾倒してる訳ではありません。
これも何度も言ってる事なんですが、引き寄せを気に入ってる理由は何より『制約がない事』です。
「幸せになるためには〇〇をしなさい」
「幸せになるためには〇〇を食べなさい」
「幸せになるためには〇〇を買いなさい」
「幸せになるためには〇〇に行きなさい」
「幸せになるためには〇〇に祈りを捧げなさい」
と言った「これをしなければいけないよ」と言うものが一切ないからです。
中にはホ・オポノポノやアファメーション、ツイてるって言うと良い等もありますが、それでも「絶対にこれをやらないといけない」と言うものはないと思います。
仮にあったとしてもそういう「何か」を強制してくるようなものは私は一切信じていません。
お金を払うでもなく行動を強いられるでもなく、ただ『自分が良い気分でいること、自分を大切にしてあげること』を提唱している引き寄せの法則が、私は好きなのです。
私がスピリチュアルを信じたい理由
私がスピリチュアルを信じたい理由を一言で表すと
「努力したくないから」 です。
私は努力と言うものが苦手で、それでいて「皆努力してるのにそれが出来ない自分」を責めて、更に「皆努力してるのにそれが出来ない自分は良くない、と分かっているのにそれでも努力しない自分」を責め続けていました。
そんな中、引き寄せの法則を知って「現実の努力は必要ない、大事なのは自分が良い気分で居ること」と言う甘い甘ーい誘いに惹かれてしまいました。
勿論、今まで常識とされているものと正反対の内容に「そんな虫の良い話がある?」と思いました。それと同時に「この話が本当だったらどんなに素敵だろう」とも思いました。
もし、引き寄せの法則や宇宙の法則が【全くの嘘】であったなら、
不安障害を治す為に【毎日同じ時間に起き、3食決まった時間に栄養バランスの良い食事をよく噛んでゆっくり摂り、午前の陽に当たりセロトニンを生成して、適度な運動や筋トレをし、体の歪みは取り、医者の言う事をちゃんと聞いて薬を飲み、お菓子や糖質、お酒などの嗜好品を避け、腸に良い〇〇を食べて、セロトニンの元になる△△を食べて、その△△の吸収をよくする為に◇◇を食べて、行動療法や認知行動療法を続け回避行動は避け、寝る一時間前にはブルーライトをカットし夜更かしせず決まった時間に就寝してetc・・】しなければなりません。
さすがに上記を全部やるのは無理にしても「こうすればいい、こうしたら改善する」なんて方法は分かっていても、それを「出来るか、やりたいか」と言えば別問題です。
「方法が分かっているのにやらないなんてバカか、治りたいならつべこべ言わずにやれ」と言われるかもしれません。
けどそれは苦しいのです。
ただでさえ苦しい思いをしてるのに、それを治すためにまた苦しい思いをしなきゃいけないのが嫌なのです。(その苦しさを乗り越えたからこそ前に進めるとか、その経験が今後の糧になるとかもあるかも知れませんが)
「物事には努力が必要、努力したから結果が付いてくる」
それも間違ってはいないと思います、でも「それ以外の方法はない」と言う現実は嫌なのです。
そう言い続けて2年以上が経ちます。
正直、目に見えた進歩はありません。
「ほらやっぱりうまくいってないじゃないか」と思う人も居るかも知れません。
私自身「もっと現実的な方法を実践していれば今頃もっと改善してるのでは」と思う事もしばしばあります。
それでも【現実的な方法】に切り替えられないのは「信じたい気持ち」と「意地」もあるのかも知れません。
以前にも言いましたが、私はどちらに転ぶのか。
引き寄せを信じ事態が好転するのか。
それとも「やっぱり自分で努力するしかない!」と気づきスピリチュアルと決別するのか。
はたまた別の事が起きるのか。
経過はまた報告していきたいと思います。